灰になりそうというか灰である。ここに残ったのは燃えカスである。
どうして、どうして世界には終わりがあるのか。
否、終わりがあるからこそ美しいのだと賛美すべきなのだろうが、私の精神はそこまで成熟しきれていない。 まだ若輩者でありながら哲学や宗教、倫理、道徳を学んだというのに根底、精神強度は何も変わっていない。
悲しみを受け入れる度量も抜け落ちた喪失感を埋める術を見出せない。
両名の卒業(片方は配信活動終了で厳密には卒業ではない)は客観的に見れば新たな道を歩んだと受け止められる……が、現実の自分は首を斜めに傾け、肩はだらりと下がりタイピングする指は力なく、キーボードという名の鍵盤を叩く。
ああ、哲学の先人ニーチェよ。
あなたも苦悩を背負い人生を終えたと聞く、こんな気持ちだったのだろうか?
絶対推しの卒業に一喜一憂するキモオタと一緒にするな。
と言われそうだが、私の中のニーチェは優しく肩を叩いてくれている。
幸いなことに私は箱推しなので、
今後も彼女達の友人を応援するという形で推し活は継続することになるだろう。
もっとも、私は浅瀬の住人だ。勝手に灰になり燃え尽きようとしているが、熱心にグッズを買ったりメンバーシップに入り続けた訳でも、彼女たちの配信を追い続けた訳でもない。 ただ疲れた時やYoutubeのおすすめに彼女たちの配信や切り抜きがあがった時に、その頑張りを目に留めて元気を貰っていた。
やった事と言えば配信や動画を視聴すること、それから高評価を押すことぐらいだ。
多くを語れる身分でもないはずなのに、ただ悲しい。
もっと配信を観ておけば良かった、陰キャ爆発でコメントすら出来なかったが一度くらいはしても良かったんじゃないか。
それで何かが変わる訳でもないのだが、悔いは残る。
これが「明日死ぬとしたら何をする?」という問いの答えなのかもしれない。
私たちは日々を当たり前の様に過ごし、中年になり、老いて死ぬ。そう思いがちだが、数々の良書は告げている。 明日・1年後・3年後、期間の違いはあれど短い期間で自らの生を終える時に何をすべきだろうかと。
私はこの命が尽きるまでに自らの哲学を作り上げたい、それを誰かに押し付ける気もなければ新たな団体を立ち上げる気もさらさら無い。
私の中にその哲学を仕舞い込み信念を持って生を終えたい、それだけだ。
故に日々はただ先人たちの良き行い、良い教え、そして良い人々、リスペクトすべき推しの存在を伝えることで少しでも世界の明度を明るくしたいと願う小心者である。
その明るさの一つであった彼女達の喪失はあまりにも痛く辛いが……乗り越えて今後も生きていこう。
ぐきりと倒れた首を縦に直して前を向こう、オタクが一人沈んだままでは世界は変わらない。
別に起き上がったところで世界は変わらないのだが、このブログの記事は明るくなる。
でも今は、今だけは、パッヘルベンのカノンが心に染みる……歌はいいね……。

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